キンカンのブログ

気が向いたら書いています。

2024/01/20

 そろそろ新年の空気も完全に抜けきった。春を待つ心に徐々に意識が向く様は蕾が芽吹く瞬間のようで、静かに横隔膜で心が躍る感覚がある。そして新年でゆるみきった心が徐々にしまるようでもある。ところで私は、というか私の家族はいつも年明けには親戚で集まって何か一緒に食べるという慣習がある。考えたことはなかったがおそらく他の世帯でも似たようなことはあるんじゃないだろうか。父方だか母方だかの祖父母の家にお邪魔して鍋を食い散らしてUNOをする。または外食でもするか、ということで小・中学生くらいの子どもはラーメンと寿司をかたくなに主張、高校生や大学生くらいの子供はやっぱり焼肉だろと笑いながら戯れに近くの奴の肩をゆさぶり、それをその子供たちの親そして祖父母もしかすると曾祖父母がほほえましく見ている車内。大抵こういうときは車は二台出動し、行き先は大人のみぞ知る。まあ回転ずしが無難だったりする。アウトドアな文化をもった世帯ならばまた違うのかと思ったが、冬だからキャンプは厳しいだろうし、まあどこも似たようなものだろう。すこし話が横道にそれたが、本題はその親戚の集まりでの出来事についてだ。私とその兄弟に、いとこ数人そしてその両親と祖父母を引き連れて所謂田舎のレストランに来て料理に舌鼓を打ったのだが、子どものほうはずいぶん静かに食べている。それと対照的に大人はずいぶん話がはずんでいる。子どもは子どもで一つの大きなテーブルを囲んで、大人は大人で固まってテーブル囲んでいるからその差は歴然だ。この鮮やかな対比に興味が湧いたのだ。これが本題。どうして子どもは静かで、大人は饒舌になっているのか?一つそこで思い浮かんだ仮説は、近況の明らかな差異だ。食事しつつの会話として、なおかつこうして久々に会うとなるともっぱら近況についての話題が多い。しかし学校に通っていればある程度その生活というのは似通ったものになるし、そもそも車内でくだらないことについて笑いあって話していたのに、突然食事しながら「ところで…どうかな?その…学校とか…部活のほうは…」などどしゃべりかけても白々しいというかほとんどふざけているようにしか聞こえない。だからもくもくと目の前の天ぷらやら味噌汁やらをかきこんでいる。もちろん全く会話がないわけではない。じゃあどういう会話があるかというと、料理についての会話だ。「量多いね」とか「この魚のやつきらい」だとか「それもらっていい?」だとかだ。それに対してむこうで大人たちが喋っているのは、「○○さんは確かこれこれこういう仕事でしたよね」「そうですそうです」「どうですか最近。コロナもある程度その、緩和して」「案外大きな影響はないんです、意外と。ただコロナ禍ではしてたことの中でもめんどくさいことは自然消滅したものも多いですね笑」

こんな具合だ。つまり少し過去のことも引っ張り出して喋っている。すこしおもしろいな、と思った。子どもは目の前で共有していることこそ話すべき、話して面白いと思って話題を振って膨らませたりするが、大人はむしろ近況にこそ時間が割かれる。もちろん目の前の話題にも触れるが、比重としてそう重くない。これが何を意味するかは知ったことではないが、興味深いとは感じた。それだけだ。