キンカンのブログ

気が向いたら書いています。

血の滴る感覚

私は鈍ってしまった。

なんにも分からない、ナイフで肝臓をえぐり取られてもなんにも思わないような木偶の坊になってしまったようだ。危機を危機として捉えず、「いっそそうなったら面白い」と薄ぼんやりと開いた眼で思っているようなそんな希死念慮のぼんくらだ。暗い暗い地下で育った黄ばんだ生白い魚のような気分でほの温かい下水に浮かんでいる。もうどうすればいいかわからない。今まで邪魔として捉えていた足かせは、逃亡という目標へ向かうための重要なファクターだったというのに。最も愚かなのは、そのことをわかりかけていたのに、足かせを外してしまったということだ。おかしな話だがある意味で惰性で、「自分の殻を破る」という刷り込まれたキャッチコピーに操られたのだ。そんなものありはしないのに、「完全な改善」というものを夢想してしまった。足かせを外しさえすれば、もうそういった様々の煩わしいもの(夜布団の中から這い出て脳を浸す劣等感や、日々の隙間にぽっかりと空いた大穴をのぞき込むような不安など)に思い煩わされることもなくなる上、目標に張り切って歩き出すこともできるようになると心のどこかで期待してしまった。今まで幾度となく裏切られてきたというのに。あちらをたてれば、という言葉がある。嫌というほどこれが真理であることを知っている。どこかを改善するということはどこかが損なわれるということでもある。全体で見れば「改善」など存在せず須らく「変化」なのだろう。変化というのもおかしいかもしれない。流転といったほうが正確だろう。話が少し逸れたが私の人生におけるそれなりに重要な一つの目標の達成というのは、何も失わずに何かを得る経験では決して無く、空白を燃料にして燃える、ふらふらでカラカラの情熱を売り払って薄い油膜のような幸福を健気に買い戻したに過ぎないのだ。しかもこの取引は返品不可ときている。この恐ろしくて、ひどく寂しい取引をこの先ずっと繰り返して、おとなになっていくのだろうか。もう売り払える空白が、燃料が、情熱が尽きた時冷たくなって死ぬのだとすれば、心臓がちぐはぐに縮み上がるほど寂しい。涙すらでない。突然誰かに思い切り頬を張ってほしいような気持ちがする。お前は間違っていると誰かに涙ながらに説得されれば_________と、ここまで書いて自分の傲慢さに愕然とした。それらの言葉をうるさいからと払い除けたのは自分自身なのに。ばちがあたったんだろう。

 全ての願いは、叶う。と思う。少なくとも自分の人生では、継続して強く願ったことは大概叶ってきた。ただ、ひとつ留意事項として考慮すべきなのはその願いは人間の脳味噌で考えられる限り最悪の形で叶う。「その他」全て腐らせて養分として願いごとは叶う。腐った一輪の花を肥料にして一輪の花を咲かせることができないように、犠牲というのは常に多分に必要なものだ。そのことを考えると、もう何も願う気になれない。何も犠牲にしたくないからだ。これほど自分を否定しても、今持っているもの、定かではないが未だ手放していないものくらいは持っていたいらしい。いま身に付けているものは私が過去のどこかで何かを犠牲にしてでも持つことを決めた物だからだろうか。今までは物が捨てられない人の気持がわからなかったが、今はすこしわかる。ただ、自分の内側に捨てられない物が増えていくように感じる。価値など無いものに価値がついていくのを感じる。脳内が馴れ合いで満ちるようで吐き気がする。どうにもならないのだろうか。