キンカンのブログ

気が向いたら書いています。

2024/03/09

つねに、前提や現行の価値観がおおきく揺らぐような提言の後では、静的なものは否定され動的なもので説明をつけようとする動きがある。つまり努力し続けることこそ大事という理論であったり、反証主義のようなことだ。これはいうなれば信じ続けるためのクッションだ。信じてきたものが斬新に否定されたとき、人はそのままでいられない。しかし同時に否定をそのまま受け入れることもできようがない。だから新しい、より言い逃れが効きやすいとでもいおうか。そんな考え方に縋りつく。動的な態度はそれ自体が不完全であることを認めているがために批判に強い傾向にある。弾力があるのだ。対して、静的な態度では「これで十分」「これ以上にもとめるべきはない」「現状の維持こそ重要」といういうなれば横腹をつつきやすい主張でかためられた部分が多い。つまり正しくないかもしれない場所を挙げれば容易に崩れる。(しかし静的な理論はその性質故に人を引き付ける。信じることが固定されているのは人間にとってありがたいのだ。偶像崇拝が基底にある宗教の多さを考えると然もあり。動的な理論はいまでこそ好まれるがそれはあくまでこれまで台頭していた静的な理論(または体制ともいえる)に対するアンチテーゼにすぎない。それこそ静的な理論の正しくなさを責め立てて不全にしたがために受け入れざるを得なくなったものに過ぎない。動的な理論は理論としての美しさはあるが、人間の不断の努力や思考を必要とするので正直キツい。)もちろん静的な理論がすべてにおいてすぐれているなどいうつもりはない。実際すべて体制側が決めてしまうことの弊害もあるだろう。不自由が強く感ぜられてしまうこともあるだろう。しかし例えば結婚はある程度子孫を安定して反映させるうえで重要なシステムだがどうしても自由恋愛を推し進めると結婚と乖離していく。まあ早い話それなりの落としどころをみつけないとね、となる。ここで落としどころを見つける不断の努力をするべき、もしくはひとそれぞれのおとしどころがあるよね、となると動的な理論だし、これこそが落としどころだと一意に決めたら静的な理論になる。あらゆる場所にこの理論はついて回るのだ。