キンカンのブログ

気が向いたら書いています。

生傷

 暗灰色の土砂降りの中をかき分けて乗合馬車は前進してゆく。からからから。地面の石畳は濡れて波打つように黒く光っている。散り散りにみられる水たまりには、石造りの町の風景が逆さまに、明瞭に、そして一層昏く映っている。

 「ひどい雨ね。」馬車の中で夫人が呟く。冗談めかして独り言ちるような調子だが、誰かの返事を求めているような声色だった。夫人は丸眼鏡を掛けており、小刀で刻んだような細い皺をもつ丸みを帯びた小さな顔が、落ち着いた色の服をまとった華奢な胴体にのっかっていた。一文字に引き結んだ口の端はわずかに上がり小さく笑みを浮かべているのだが、目は神経質そうに開かれており、どこか不安定な雰囲気を纏っている。その隣に冷えた鉄の塊のように座っている男、おそらくは夫と思われる人物はむっつりとして声も出さない。M字の額の丸刈りといった髪型で、髭は太く脂ぎっておりたやすく一本一本が数えられるような髭だ。鼻梁は高く薄い。目には不健康な暗さが灯っている。表情から懊悩を心に抱えていることは一目でわかるが、おそらく実際に彼に宿っている苦痛より幾分か余計に上乗せして過剰に演出したような表情であるように思われる。彼はたっぷりととった余白の後に不確かなうめき声を小さく漏らした。その後妻が聞いていないと踏んだのか、少し大きくわめくように「ああ」と言った。それが返事らしい。返事を恵んでやるとでも言わんばかりの声だった。いや、正確には彼は向かい側に座っている夫婦を意識して会話を控えようとしているらしいが、どちらにせよ不機嫌であった。その二人の間に息子が挟まれて座っている。息子は十歳ほどで目は大人びているが肌はつやつやしており、髪の毛は黒っぽい茶髪で困り眉の気弱そうな青年だった。身長は母より高く父に少し及ばないくらいだった。雨のせいか会話のせいかひどく重苦しい雰囲気を、すこしずつ解きほぐすように絶え間なく手を握ったり開いたりしている。裏を返せばその手以外は凍り付いたように動かない。口は「い」と発音するときに作る形を閉じかけたような具合だがそこに意思が宿っているようには見えない。目は虚ろに自分の靴を見つめている。彼の頭の中ではある一つのことでいっぱいになっていた。それは狂おしいほどの、四肢の動きへの渇望だった。体の中に不揃いな大きさの石が内側から自身の躰をゆっくりとした力で動かすような、もしくは歯車が皮膚を噛んだまま動いているような不快感を感じつつも、身じろぎ一つせずにじっと目線を動かさないまま、外に降る雨にも一切構わず馬車から飛び出て外を駆けまわる妄想をしては狂いそうな気持にじっとりと身を浸していた。実際これは精神年齢がそれほど年老いておらず、認識する時間の流れが比較的遅い子供や若者に往々にしてありがちなことなのだが、短い時間でも精神的であれ肉体的であれその動きに制約をうけると彼らの感覚もしくは神経がひとりでに何か大声でわめきながら癇癪を起して今すぐに体をうごかせと命じ、足が、足の次は腰が、その次は手がむずむずしだすのだ。この若者の名前はセドルフ・フョードルといい、その母である丸眼鏡の夫人はパスハラ・フョードル、その夫はウラジーミル・フョードルという。ウラジーミルは役人として働いており、勤めを終えた帰り路に彼が乗る乗合馬車に、後からその日の図書館での勉強を終えた息子が乗り込み、彼らの家の近くまで乗っていくのだ。パスハラは今日買い物に行っていたのだが雨に降りこめられてしまい同じように乗合馬車に乗り込んだ。そのため手にはそう大きくないバッグが握られている。バッグの中にはジャガイモとパンと調味料が入っている。手は蒼白で血管や筋が力なく浮き出ているのに対して、腕は太くこそないが逞しさを微かに感じさせる。パスハラが横目で心配そうに見ているセドルフはここのところ碌に休まず熱心に勉強に励んでいる。この辺りでは一二を争う中学を志望しており、その受験を控えているからだ。しかし金銭的に余裕がない家庭故に学習塾の類には通っていない。別段セドルフはそれを気にも留めていないが、両親になにか咎められた時にはそれを思い出してすこし自分を慰めたり心の中で咎めてきた相手を非難するきっかけにする程度だった。実際セドルフの内気だが同時に自分のことは自分で決めないとやる気が早急に失われ、外見は一生懸命だとしても結果が頗る振るわなくなるという性質から、たとえ学習塾に通ったとしても思うような成果を上げられるものではないだろうとセドルフ自身もぼんやりと感じていた。しかし彼はその内気さゆえに彼自身のこの性質について両親に話したことがなかったため、その両親は彼を学習塾に通わせることができていないことを指に刺さった木屑の針のように微かに、しかしことあるごとに気にしていた。このほか様々の雑多なことも父、母、そして息子それぞれの胸に渦巻いていたのだが、受験を控えているという状況、その分厚い雲に押しとどめられて煩悶が言葉に凝結することはついぞなかった。

  突然に、そういえばな、とウラジーミルが話を切り出した。配慮からか小さな声で、しかし煙交じりの泥のような傲岸さを伴って。

 「ビゴツキーのやつを知ってるだろう?あいつがまた仕事でヘマをしたんだ。書類に不備があった。こっぴどく叱ったんだがな、どうも心の底から反省しているように見えないものだから、上の奴からも注意するように頼んだんだがこのごろの人手不足のせいでそれも満足にしやがらない。怖がっているのさ!あいつら若い衆が辞めることを。辞めるのならば辞めたらいいじゃないか!どちらにせよそれほど貢献しているわけでもないのだから。」演技がかった調子で、しかし小声でまくしたてる。丁寧にビゴツキーとやらの手際の悪さの真似と、それを諫める自分の姿を雄弁に演じている。語っていくうちに調子が出てきたのか不機嫌な様子はだんだん後ろに引っ込み、代わりに軽く酔っているような上気した、冗談も時に織り交ざったしゃべり方が台頭してくる。セドルフは先ほどまでの不機嫌が自分に向くのに内心びくびくしながらも冗談が聞こえたら控えめに笑っていた。パスハラは自分の発言が雑にあしらわれたことに怒りつつも、夫の不機嫌にも感づいていたのでその怒気を表すのも躊躇われ、ただ今は話を黙って聞こうと努力していた。

「そう。」

 やっぱりあなたは勇敢ね、とパスハラがいろんなものを押しとどめた口で絞り出すように返した。ウラジーミルは馬鹿にされたように感じ少しむっとしたが、パスハラも疲れているのだと思い、押し黙った。ふたたび乗合馬車は湿度を含んだ沈黙にどっぷりと浸かってしまった。セドルフは初めはこの沈黙を不快に感じていたが、次第に家族が押し黙っている状況が気にならなくなり、意識は絶え間なく不規則に鳴り続ける雨音にゆっくりと覆いかぶさり、溶けて一体となって遠のいた。

 

 

 

 帰宅したセドルフは苦手なシチューを夕食に平らげ、さっさと自分の部屋に行って勉強を始めた。ウラジーミルはそれを横目に見ながら満足そうに椅子にに寄りかかっていた。まったく。セドルフは誰に似てあんなに真面目なんだろうな、とパスハラに話しかけようとして思いとどまった。昨日もその話をしたことを思い出したのだ。パスハラはこちらに気づいてきゅっと口角を上げた。と思うとすぐにまた下を向いて縫物のつづきを始めた。勉強しないセドルフを昔、一度こっぴどく叱ったことを思い出した。それでもすぐどこかで隠れて遊んでいたらしいが、受験の時期が近付くとこうもあっさり勉強を始めるものなのかと思うと、やりきれないとも思ったが、それよりも安心のほうが大きかった。なにもあんなに叱る必要はなかったのかもしれないと思うと、かすかに自己嫌悪を感じた。いや、必要なことだった。と結論付けたところで、まだやっていない持ち帰った仕事を思い出して、慌ててそれに取り掛かった。

 セドルフは部屋に戻ると小さく一息ついた。人付き合いや親の手伝いといった煩雑なものを考えなくてすむ空間。「勉強をしないといけない」という通念をいままでは厄介にしか思わなかったが、裏を返せば勉強さえすればほかの面倒は極力避けられる。どうせしなければいけないならば、精一杯有効活用してやろうと考えた。セドルフは賢い少年だった。だからこそプライドの高いところがあり、かつ年頃ゆえに両親を疎ましく思っていた。自立志向があるが具体的にどうするのかわからない。それと、なにより彼は「皺」が嫌いだった。祖父母、両親の顔にくっきりと刻まれた皺。そういった懊悩もあったが、今はひたすら単語や公式を頭に詰め込むことで搔き消した。何かから目をそらしているような気がした。

 

 いつも通り図書館にいって勉強をした後の帰り道、父を見かけた。と思ったがよく似た別人だった。どこが似ているのか見極めようと、ちらちらと盗み見た。いやな顔だった。深く刻まれた皺の一本一本に脂のまじったほこりが溜まっているように思えた。不快に思うほど見るのが癖になってしまう。やはり自分は皺が嫌いらしい。どうしてだかはわからないが。そう思いつつ家に帰るとスープとパンが用意されていた。

 パスハラが「おかえりなさい」と声をかける。椅子にかける。食事の前に祈り、食事を始める。セドルフは食事が嫌いだ。空腹さえ満たせれば何でもよい、と思っている。今日も早く食べ終えて勉強に取り掛かろうと思っていた。

そこでウラジーミルが顔を上げた。不穏な雰囲気が流れた。

 ウラジーミルは唸るように言った。

「蠅だ。」パスハラは敏感に夫の不機嫌に気づいて少しく顔を上げたが、意地からか丁寧に返答することなく「ええ」というような軽い返事をしてスープを一匙だけ口に転がした。薄い味が余計に薄く感じられた。

「蠅?」セドルフの脳は少なからず疲れていたためここで正直に、言い換えるならば不用意に返した。「いないよ蠅は」

「いやいる……ほらそこだ。それほど大きくはないな」しかしセドルフには見当たらない。「スープを飲もうとするとスープの近くを飛び回りやがるんだ」

ウラジーミルは言葉にこそ出していないが、いよいよ階段をずんずん上がるように苛立ってきている。「いや。いないよ」セドルフは真っすぐ向いて答えた。

 

「…馬鹿にしてるのか?」

 

ウラジーミルもまた真っすぐに向きなおして答えた。口の端は苦笑いのような形を作ってはいるが目が笑っていない。冗談を言える雰囲気から一転して説教の雰囲気に変わるときのあの生ぬるく湿気た、それでいて肌が切れそうなほどの緊張感が一瞬にしてその場を満たした。板ガラスを地面に落とした瞬間に細かいヒビが入って真っ白になるように、もしくは燃焼が連鎖的におこるように。苛立ちにより温度が上がった頭には他人の能力の不足や無理解がすべて悪意に映り、それに対する苛立ちが一層燃え上がるという状況に陥った。

 セドルフはなんとなく「しまった」と思いながらも、心の底では気づいていた。この状況にも、また今ならまだ父の意図を汲んで許しを請えば彼の頭の沸騰も比較的容易に止まるだろうということも。しかしそれはどうしても嫌だった。もちろん蠅の所在に関心があるわけでは全くなく、そうではなく謂わば出来心だった。鬱屈した日常にカンフル剤を欲しただけだ。パスハラがあまりはっきり返事をせずに黙っていることもセドルフのなけなしの反抗心を助けた。パスハラがウラジーミルに親身に答えていたら、セドルフはなんとなく分が悪いと思って、従順に相槌をうっていただろう。ウラジーミルは蠅のことなどどうでもいいと言って話を区切ってから、セドルフのことについて話し始めた。しかし話すというよりはずっと説教に近いものだった。事実、蠅の話でたまった鬱憤は蠅の話で晴らすことが難しいと踏んで話題を変えたのだろう。セドルフは説教されると、いままでにひどく叱られてきた記憶がフラッシュバックして手が震えたり、体がうまく動かなくなってぎしぎし言ったり、簡潔にいえば蛇に睨まれたカエルのようになってしまうという癖があった。そのことで自分で自分を情けなく感じることも多々あった。また懸命にウラジーミルの発言の内容よりも意図を探ろうとしていたということもあり、何を話しているのかは正確には飲み込めなかった(要領を得ない話し方だったことも大きい)が、要約すると以下のようなことだった。

お前は自分で選んで勉強をやっているんだ。やらないならやらないでかまわない。俺はそれによって一切被害を被らないから。それを他人にやらされているだとか、そういう言い訳をしないとできないようならいますぐやめろ。別に受験などしなくても立派な人間は沢山いる。イゴージン家の末っ子、お前と同い年のドロク?とやらのほうがお前よりよほど立派だ。

 ___こういった内容をゆっくりとした、いかにも正しいことを正しい立場で述べているといった態度で語り続けた。裁判長が判決を無機質に言い渡すように、ただ少し「俺はおまえのことを思っているから言っているのだ」という甘ったるさが混じった語調で。セドルフは相変わらずぎしぎし軋む身体の内で、唯一まともに動かせる眼球、ひいては彼の視界に意識を集中した。主にウラジーミルの顔と、テーブルクロスの柄を交互に見て、いま唾が飛んだな。と考えたり、父がひとしきり大きな声を出した後にうなずく様を観察したりしていた。幼少期から注意散漫で叱られることの多かった彼は、まともにそういった説教を受けると深く傷ついてしまいそのあとなにも手につかなくなってしまうことを経験から知っていたため、こうして「怒られている自分」と「思考している自分」を切り離すことで対処していた。ウラジーミルはセドルフのそういった静観の態度をはじめはこころよく思っていたが、だんだん不快になってきて声を荒げ始めた。聞いているのか、黙りこくるのがもっとも傲慢な態度だ。というような内容のことを言っていたが、もうほとんど吠えるように、脅すように、今にも顔に嚙みつかんばかりの暴力性を伴った言い方を叩きつけるので、内容などあってないようなものだった。これまでは静かに話を聞くともなしに聞いていたセドルフだったが、この怒号にはさすがに切り離されていた自我もおのずとくっつき、くっついた途端に涙が出てきた。別段怖いわけではなかったが、ウラジーミルの初めの目的が一応はセドルフの態度や行動を正す、もしくは正しい方向を示すということだったのが、次第にセドルフの静観への不快感が募りなんとかしてセドルフの居直りを崩してしまいたいという気持ちが目的に成り代わってしまう様の、そのあまりのグロテスクさに愕然としたのだ。こうなってしまえば、たとえセドルフが口で「うん、わかった。その通りだと思う」と言っても、それは今手綱の放されたギロチンに語り掛けるようなものでまったく意味など持ちはしないだろう。ウラジーミルの目的はセドルフを傷つけ、愚かしさに気づかせ、涙を流させ、「悪かった」過去を恥じさせ、悔い改めさせるという一連の物語ということになる。その第一段階として、傷つけているのだ。愛の一環としての暴力、ということになる。しかし大きな目標は小さな目標の集合によって成り、目前の小さな目標に熱心になっているときは大きな目標の全体像などおよそ頭にあるものではない。セドルフはその第一段階のみで頭が満たされた人間をみるのが耐えられないほど嫌だった。未だ熱意を伴った怒号を飛ばすウラジーミルの目を見ながら、果たしてこの双眸に自分が写っているのかと疑いたい気持ちにすらなった。

 ウラジーミルがさんざん大声を出して疲れ始めた頃合いをみたパスハラが、とりあえず、もう遅いから寝ましょう、話したいなら朝に。と穏やかに言った。ウラジーミルは速い鼓動を遅くするように息を吸って、吐いた。それから一泊置いてパスハラに「お前は。お前は蠅が見えるだろう?」と聞いた。パスハラは、「見えないね」と答えた。

ウラジーミルはしばし茫然自失の表情でパスハラを見た。全く予想していなかったと見えて、ひどく驚きうろたえた。目の端がひくひくと痙攣している。セドルフもまた驚いた。蠅がいるかいないかについては深く考えていなかったが、ここでは当然パスハラは「見えている」と答えるものだと踏んでいたからだ。ウラジーミルはセドルフのことはある意味で敵のように考えていたため、セドルフが何を言ってもただ反発として片づけられた。しかしパスハラは現状、敵でも味方でもない。本当に蠅がいないのではないか、自分が何かおかしいのではないかという考えがウラジーミルにやっと芽生えた。ウラジーミルはじっとりと汗をかきはじめた。そこで初めて、少し前、友人に視界に異物が見えるようになったという人物がいたという記憶がよみがえってきた。その際はおかしなこともあるものだと思って特に気にすることもなかったが、自分も同じ症状なのではないかと思い至った。

 ウラジーミルは、目に見えて躊躇っていた。セドルフへの説教は蠅の存在に端を発しており、不在を主張するセドルフへの怒りが燃え広がった結果だということを思うと、軽々しくした説教は悪手だったという思いがじくじくと荒い切り傷のように痛んで感じた。目の病気などもはやどうでもよかった。恐ろしいことに自分の行動の正当性が大きく揺らいでいる!それも最も親しい人たちの前で。

 

ウラジーミルは目を医者に診てもらい、治療こそできないし原因も分からないがそういった症状の報告は多くあり、おそらく網膜に原因があると告げられた。帰ってきて椅子に座ったところを見ると、3分の1ほどに背が縮んだように見えた。目は虚ろで、髭や髪の油っぽさなどもう影も見られず、セドルフはなぜか途端に自分の体躯が大きく膨らんで周囲と溶け合うような気がした。すると父はこちらを見て「…おかえり」と優しく微笑んだ。申し訳ないような雰囲気が眉毛に表れている。心臓が虚空に飛び上がったような気がして「うん」とも「ああ」ともつかない返事をして訳も分からず2階に上がった。理由は分からないが見ていられなかった。一匹のハエが不遜な獅子の傷跡に食い込んで卵を産んで遂には死に至らしめる。嘘みたいだと思いながらも、なぜかどうしても人間とはそういうものだという直観がセドルフを冷たく貫いていた。心臓の周囲の肉がすべてなくなって、風がその吹きたいように胸を貫いているような気がした。自分の部屋のドアを開けて、入学試験を受ける前の状態がそのまま残った部屋を見た。

 

瞬間、その感覚はいよいよもって高まった。

何か大切なこと、身近な人の名前を忘れたままよく知らない人と調子を合わせて笑いあっているような、自己嫌悪を凍らせて作った剣がみぞおちを刺し貫いているようだ。

その上貫かれたその周辺にももはや私のあたたかい肉はない。血も滴ることはない。乾いて傷口は冷たく黒ずんで壊死している。

すうすうと乾燥して冷えた空気が通り抜けているだけだ。

 

ああ。

 

失ってしまった。もう決して戻らないものを。取り返しのつかないどこか寒いところまではだしで来たんだ。みんな役目を終えて退場した舞台で、なぜか自分だけ取り残されて、吐くべき台詞も知らずに突っ立っている。そんな気がした。

寂しいのだろうか、悲しいのだろうか。

そう、である気もするし、全く違うようにも思う。

今迄「寂しい」と思ったり言ったりするのは、「寂しくない状態を欲しい」という主張でもあった。「悲しい」ときも同様だった。

ただ、今は、これからは、その涼しい空洞とともに生きていくことはもう前提として考えている。しょうがないか、と思っている。その心も耐えられない。どうする「べき」か?それだけが問題なのだ。本当にこれでいいのだろうか?何か大切なものをおっことしたのならば、拾いに戻る「べき」なんじゃないか?そうする「べき」だとして、どうすればいい?どうすれば取り戻せる?

 

 

…おそらく無理だろう。

 

振り返って、鏡を見た。

 

額に、細い、しかしはっきりとした数本の皺が刻まれていた。

 

「どうしたの、セドルフ。お父さんのお見舞いに行くわよ。」

 

皺を指で触れた。

 

 

 

「うん、もう行くよ。」