キンカンのブログ

気が向いたら書いています。

2026/6/4

やっと免許が取れた。苦手だ苦手だと言い訳してずるずる通っていたらもう半年になってしまった。通い始めた頃の記憶がもう高校生のときの記憶などと同じフォルダに入ってしまった感じがする。今日は朝から散々な日だった。まず電車に乗って目的の駅まで行く途中何を思ったか一駅早く降りてしまった。何を思ったかと言ったが、目的の駅と降りた駅その間隔がかなり狭く2分程度早く着いたのだと勘違いして降りてしまったのだ。

ンバカすぎッ!

ぼんやりした顔で見知らぬ駅を出て、しかし足は走り出していた。数分の違いで間違えたが数分の違いということは走れば何とかなるはずだ。方向も分かっている。息を切らして足をバタつかせる。サイゼリヤを右に曲がる。痛い。脇腹が痛い。朝早く出たから朝ご飯も食べてないのに。通勤ラッシュにぶつかって持ってきたパンも食べれず電車の端っこで立っていたのに。つらい。でも自分が全部悪い。ご飯はもう少し早く起きれば食べられただろうし、駅を間違えばければこんなこと起きなかった。あー気分悪い。痛い。あ、駅見えた。時間もまだ間に合う。ああよかった。人間頑張れば何とかなるんだな。これで笑い話だ。今度友達に誇張と脚色まみれで話そうっと。そう思いながらバスを待ったが待てども待てどもバスが来ない。そういう曲昔ありましたよねニコニコで。バスは来る場所が思ってたところと違った。説明が難しいが、自分はここのバスの時刻表をよく調べ抜いていた。そこに平日の通勤ラッシュならバスが来る場所が変わりますよとあった。危ない危ない調べてよかった。知らずに行ってたら大変なことだったとほっと胸をなで下ろしたのが、昨日のことだ。見よ、通勤ラッシュだと思ったのに場所が変わってないではないか。どういうこと?多分通勤ラッシュというほど人がいなかったとかそんなとこだろう。ふざけやがって。

ぜえぜえ言いながら食べてなかった朝食のパンをかじりつつ、次のバスがいつだろうかとほとんど絶望しながら調べたところ割と早く次の便があることが分かった。これなら間に合う。というか自分の失敗を見越してかなりゆとりを持って出発したのがここで効いた。朝食を食べてのんびりしていたらこれはできなかった。走って渇いた喉にしがみつくように詰まるパンを三ツ矢サイダーで溶かして胃に流し込む。さっきまで胃が空っぽで、しかも全力疾走で負担をかけたからか胃の具合が変だ。胃が「なんで急にそんなことするんスか!?」といわんばかりにムカムカして気持ち悪くなってくる。吐くほどではなかったが空いてるトイレの個室に入って一息ついた。ああやっぱり、自分は1人が好きなんじゃなく、1人でいないと人に迷惑をかけるから1人でいたいだけなんだと再認識させられた。免許センターに着いてからは特に問題なく進んだ。受付も済ませて、試験問題も簡単だった。今まで受けた試験で一番簡単な試験だったくらいだ。そのあとの諸々の手続きも問題なかった。支払いの際に免許証の暗証番号を書いた紙を出してしまったくらいだ。でもとても疲れた。自分が昔の劇作家みたいな顔をして写っている免許証を眺めながら口の端や瞼や足に蓄積したとろっとした疲労を感じる。全部終わってバスに揺られながらうとうとしていると大学の前に止まって、色付きの紙吹雪みたいな大学生がどっと乗り込んでにぎやかになったが、あまり眠気を妨げなかった。そのあとは電車に乗り換えて帰った。駅を出ると小雨が降っていた。バスを待っているときからはちはちと首筋に冷たさを感じたことがあったし、そうだろうと思ったが、夏の始まりらしい濃厚な空のような、もしくは希薄なプールのような匂いがむっちりと鼻先にぶつかって正直ビビった。「雨すぎ!」って思った。でも湿気のなかに包まれて慣れてくると、疲労色(たぶん少し暗い黄土色)に染まった体に合ってて楽な感じがした。濃度が一致しているというか、浸透圧が発生しないというか。そうだ。湿気が高いと空気が疲れてる感じがする。

2026/05/13

最近のこと。

実はまだ免許取れてない。情けないことに。

色々言い訳しようと思えばできるけどただ面倒くさいのと怖いだけ。それだけ。

まず隣にひと(教官)がいてそれがなんか不機嫌で、ハァ?みたいにしゃべりかけてくるのがもう自分にとってはきつい。情けない。でもそれだけならまだいい。

それだけなら別に耐えられる。耐えるだけなら。それならすごく楽だ。でもそれだけじゃなくて、あたりまえだけどそれと同時に運転しないといけない。当たり前すぎてバカみたい。

でも頭がまわらないんだな、これが。

ぎゅーっと脳味噌を直接締め上げているようでできていたこともひとつづつ指の間からすり抜けていってなんにもできなくなってしまって死にたくなって手が震えて動悸がする。足も震える。マニュアルだとこの足が震えるのが問題で、普通にクラッチ操作を誤ってエンストしたりする。仮免もってんのにね。

思えば小さいころからずっとこうだった。怒られるとびびりあがって頭も体もうまく動いてくれない。所謂トラウマほどひどくはないけど、普通に普段のパフォーマンスが発揮できなくなる程度にはきつい。でも仮免許はとれてるし、本当に症状がひどい人は自分とは比べ物にならないんだろう。そういう意味では甘えてると思う。自分はまだ。

あと追加料金かかるのも何気にきつい。自分は不器用なのを練習量でカバーする方だった。自分なりの練習法で自分なりの時間管理をしてテストやらスポーツやらなんやらに取り組んできたという自負がある。

でも教習所だとそうはいかない。だって一人でそもそも乗れないし、お金かかるし。お金かかるのはあたりまえだけど。だから最近ゲームのpaper schoolというゲームで練習したりしてるけど、なかなかうまくいかない。あとストレスが確定でかかることが人生に存在しているだけで他の事も手につかなくなってしまう。30%くらい効率が悪くなる気がする。だから早く終えないといけない。けど終えようとすると難しくて進まない。進まないけどお金をかけたくないからなかなか行かない。そうしてもうこんな時期になってしまった。と思いきやこの間そういう自己嫌悪の中でセット教習を受けたら同じ車の三人の中で自分が一番進んでいた。自分は7月までで、他の二人は6月まで。自分は学科は全部終わっていて、他の二人は全然終わっていない。なんだこれ。つまんないなろう系かな?また俺なにかやっちゃいました?やってないから終わってないんですが。

しかも自分が運転してる間残り二人が

「え!?自分も六月までです!」

「あ!まじかいっしょですね!」

「学科とかって?」

「全然!おわってなくて~」

「あ、そこも一緒だ!いっしょにがんばりましょうね!」

って盛り上がってた。なにそれ?

大学生ってすごいな。俺も大学で3年過ごしてるけどまだ大学生じゃなかったのかも。あと一ヵ月で期限が切れるのに学科残ってる状態で同じ境遇の人と盛り上がれるのはよくわからない。でもこれをみて自分はまだだいじょうぶだと思ってもいけないと思う。

「いやぁ、何言ってんだろうね。しっかりしてんの○○(自分の名前)だけだよ!見習わなきゃよホントに。」

レベルが低すぎますって。

いやそんな、自分も全然できてないし、とむにゃむにゃ謙遜したけどほんとに全然できてないから謙遜としておかしかった。でも比較的できている方であることは事実だしホントになんて言えばよかったんだろうか。しかも運転は自分が一番下手だったし。なにそれ。あんたらなにしてたんだ?実家にサーキットでもあるのか。

それと漫画の話。

このあいだ自分の創作のテンポを忘れたらつまんなくなるという話を読んで、ほんとにそうだなと思うと同時に、殺すぞ。というふうにも思った。漫画を描いている人間はわかりやすくしないといけないんじゃないか、これはほんとうにおもしろいんだろうか、もっとみんなに伝わりやすい今風なものを…とどれだけ考えていることか。その結果どれだけ本来の力がでないか。わかりにくいものは罪。賢い人は分かりやすく作る。そういった今の潮流の中で、わかりやすさをなんとか担保しようとしたときまずまっさきに邪魔になるのは自分のテンポだ。真っ先に削られ得るものでもある。自分のテンポはあたりまえだが他人のそれとは違う。わかりやすいネームのテンポとも違っていたりする。例えばの話をしよう。決めゴマや衝撃的なシーンはめくった最初のページにドンと出ると映えるしわかりやすい。これは聞いたことがある人の多い技法だろうと思う。それくらい一般的な技法で、逆にそれを逆手にとった表現すらある定番中の定番だ。この技法を要所要所で使ったくらいで「自分のテンポ」が完全に乱されつくすということはないが、しかし「決めゴマをここにもってこないといけない」というルールが追加されることでその範囲で「自分のテンポ」は幅を利かせられなくなる。それでも一つのルールだけならそれほど問題はないだろう。しかし「わかりやすくするため」のルールは山とある。それをできるだけ採用して描くとどうなるだろう?しまいには「わかりやすさのテンポ」でしきつめられて自分のテンポを置ける場所なんてなくなっている。創造性はいろんな言葉で説明できるが、自分はいたずら心のことだと思っている。「ここでこんなことをしちゃったらどうなるだろう?」結果わかりやすいものになるか、面白いものになるか、「良いもの」になるのか。そんなくだらないことは一切考えずに、ただ無邪気に結果をみまもる心。それが創造性だと思う。だからこそ創造性と分かりやすさが適切に組み合わさった状態で―――

なんて、ありきたりでつまんないし的を得ていない。だって、創造性はわかりやすさを嫌う。結果が「わかりやすいもの」になる必要がある、そういう「ルールの中でのいたずら」は小規模に縮こまるに決まっている。かいならされたいたずらだ。いたずら心は時に構造そのものを疑うものだ。矛盾なのだ。わかりやすい自分のテンポというものは。欺瞞ともいえる。わかりやすい時点で完全に自分のテンポというわけではなかったりする。自分のテンポを戯画化して、微分したような、一段下のものになる感覚。それでもなお魅力的だから、しかもわかりやすくなっているとあれば見る。でも本当に「自分のテンポ」ではない。そんなに簡単な話じゃない。だから、殺す。なのだ。

だからこそそれらふたつを同時に成立させている作品は稀有なのだと思う。自分はそういうものを描きたい。結局ありきたりにまとめてしまった。

 

2026/01/26

最近いよいよべらべらと喋るようになってきた。しかもバランサー気取りでツッコミメインの立ち回りをする始末。「それはおかしいでしょ笑」「たしかにそうですね…」

きっしょ。

まぁやめよう無根拠に自分をディスるのは。こういうことをすると自分の本当にダメな問題点に気づけなくなる。いいところでもあるはずだ。確実にいいところは、喋る対象に対して過度に幻想を抱くことがなくなった。話している相手はへりくだるような相手でも、見下すような相手でもなく、対等である。この考えが分かるのに二十年かかった。ずっと理屈としては理解していたが、常に相手との上下関係を考えているさもしい考えがどうしても抜けなかった。会話を決闘のように思っていた。すべての言葉は自分の肌を傷つけ血を流すに足るほど鋭いと感じていたから。ただ今はもうそんなことはない。面の皮も分厚くなって、べつに刃が突き刺さるほど繊細な肌を持ちあわなくなってしまった。悲しい。

2026/01/26

 自動車学校にちゃんと通いだした。もともと自分はすごく不器用で、しかもパニックに頭を占拠されやすいので運転なんか向いてないと思っていたし、今もその考えは大きくは変わっていない。本当はATで取りたかったが実家の車がMTになる可能性があるのでMTで取っているが、本当にきつい。一度泣きながらバスにゆられて帰ったこともあった。とにかく同時にすることが多い。ウィンカーだして、ギアチェンジして、減速して、サイドミラーや左後方の確認して、カーブして、頭がおかしくなる。あと自分の心根のもろさにも痛感させられた。隣に教官が乗っていろいろアドバイスやら注意やらをくれるのだが、ちょっと口調が厳しいとすぐ頭がパニックになってミスる。すでにもうわかっているところでもミスしたりして、それでまた注意されてパニックになる。そしてミス。そうだった、思いだした。自分はこうなるのが嫌であらゆることを全部注意されない程度に完璧にするか、それができないなら初めから手を出さないようにしようという姿勢を徹底してとるようになったんだ。誰にも叱られたくない。怒られたくない。くだらないが、本当にそれが一番と言ってもいいほど大きな自分の人生の指標だった。やりたいことは何?子供のころから耳にタコができるほど聞いた。どうなりたい?

とにかくあなたたちに怒られたくないです。そう思った。怒られる、このことの何が嫌か。子どもの頃はただ漠然と嫌だったが、多分よくわかんないことで大声で怒鳴られて心臓が縮みあがりそうになるのが嫌だったし、もっと言うならば「こいつはちゃんと分かっているのか。分からないならわかるまでビビらせるか」と、ビビらせればビビらせるほど子供は大人の言うことを理解して、いいこになって、成長して、なんの問題もなくなるはずだ。治療してやらないといけない。そういう心からやっているとしか思えないほど自信満々に怪物のようにますます声を荒げ目は血走り今にもお前にぶつけるかもしれないぞと言わんばかりに机や壁を強くたたく、そういうあさましい魂胆も含めすべて嫌だった。軽蔑すると同時に、心から恐れていた。今も、その考えは変わっていない。ただ、変わったのは「自分がそれをしないでいられるか」を問われる立場になったことだ。もう21歳、数か月すれば22歳だ。大人じゃないとは言えない年齢になった。明確に向こうから敵意を示し、時に侮辱としか思えないような態度をとられたとしても、こちらもその愚かしさの土俵におりていくことがないようにしなければならない。かといって、暴力や権力で上空から「大人」であることを利用した絨毯爆撃もしない。横に立って、しっかりと同じ目線で向き合って、間違えたなら謝って、どれだけ、異常な状況で当たり前、正常を貫き通すという「異常」を実現できるか。それを問われている。自分は神と名のつくもの全て、イエスもブッダもシヴァもあとラマヌジャン?も、信じないが、唯一好きな聖典の言葉がある。「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」という言葉だ。

「大人」ってなんだろう。

月並みな疑問だ。この問いに絶対的な答えはない。なぜなら、自身が子供の頃、「大人」に対して抱いた不信感、嫌悪感、こういうところが嫌いだ嫌だ、吐き捨てたそんな全ての欠点を含まない存在こそが自分自身の「大人」の要件になる。

「~しているような大人にはぜってえならねえ!」ならないならそれでいい。できるものならば。それはきっと容易ならざる道だ。今馬鹿にしたその大人もかつては大人に反感をいだく子供の一員で、決して何も考えず何も感じず大人になったわけではない。それでも、無理だったのだ。もうすこしそのことについて考えるべきだ。そう、べつに子供に限らず、誰にでもいえることだが、他人のもつ壮大さについて適切に敏感になった方が良い。ガキの一言でひっくりかえせるほど現実は単純でも軽薄でもない。うんうん唸って苦しみながら考えて絞り出して生きている人間が、さらに絡まりあってこんがらぐってごろごろ転がっていっているのだ。

2025/12/25

・創造性の殺し方

 なんというか自意識過剰と言うか傲慢と言うか、とにかく身の程も知らないことを書くかもしれないが、正直に思ったことを書く。最近「こうしないといけない」で漫画を描いていた。つまり。初めはこれこれこうした内容を置いておかないといけない。伏線をおいて。感動させて。笑わせて。責任に駆られてネームを描いていた。それは自分が芽が出ていないからで。一刻も早く人に認められたい。そう思って書いてたらこうなった。それだけだし、それが良い悪いということでもないと思うけど、少なくとも「創造性」を殺す行為だと思った。創造性の定義は厳密には行わないが、なんだか読んでいてわくわくするような、クビの周りとか腕の周りが楽しくなって振るわずにはいられないような。たまらなくなるような。そんな感じ。が、なくなってしまうのだ。楽しくなくちゃ意味が無いのだ。みやぞんもそんなことを言っていた。ごめんね、みやぞん。信じられなくて。苦痛に耐えて努力した先に何かあるということもあるかもしれないが、少なくとも創作はそういうものでもなく、(もちろん楽しさと苦しさがともにあるのは常だが)楽しさがないというか、退屈というか、心躍る何かが伴っていない、ただ責任感がずんなりとして心にのしかかるような状態では良いものが描けない。こうした方が良い、こうしないほうがいいなんてのは気にするモノじゃない。と、思う。

2025/11/21

 最近AIの進歩が凄まじい。簡単な支持を入力するだけで小説や絵はお手の物と完成させ、動画すら一瞬で作る。クオリティはというとよく見れば違和感を感じるところはあるものの、不気味の谷を乗り越えて中腹あたりまで登っているように思う。わかりやすい違和感としては、動画であれば輪郭が揺れている場合があること、手など造形が複雑なものの描画の不具合、不自然なほど画面全体が滑らかに変化することなどが挙げられる。よほどうまい作り手が造ったものでない限りAI製の動画はすぐわかる。しかし文章、絵に関してはもうほとんど見分けがつかない。動画の見分け方を流用して絵も見分けることはできないわけではないが、情報量が少ないのも相まって難易度が格段に上がる。そんな人間の創作物に漸近する勢いを見せるAIの創作に、自分も触れてみようと思った。まず文章。一番手を付けやすい。ChatGPTでも使えばすぐ出力できる。設定なしで作品を作らせようとするとどうしても在り来たりでつまらないものが出力されるので設定は自身が考えたものを使った。「ある古代文明の遺跡から出土したボードゲームらしきものを遊ぶことを通してその文明の謎を解き明かしていく安楽椅子探偵的作品」を書いてもらうことにした。創作のコツを説明するとそれが的確に生かされた文章が上がって来る。自分のようなアマチュアでこれなのだからプロが使えばとんでもないことになるんじゃないかと思う一方、使い進めるにつれて違和感がある。0を1にするときは自分が受け持てばいいし、1を9にするのは細かい修正を考慮に入れてもAIの力は偉大でかなり楽ができる。ただ、9を10にする部分に関してはAIではどうにもならない。飽くまで自分の試してみた経験の範囲を出ないが、おそらく小説を読むとき自分たちは自分たちで理解もできないような微細な違和感にも敏感に感じ取ってその味を識別する。つまり、「文章としての完成度は高いしアイデアもいいけど、なんかスベってる」という感じの文章になる。これにも直に解決策は与えられるのかもしれないが、しばらくは難しいのではないかと思う。

2025/11/13

もう嫌だ。辛い。きつい。

白状します。嘘です。

本当は昔の方がずっと辛かった。

高校生から大学生なったくらいの当時は本当に辛くて、身をよじってしまうような苦痛から逃れるために何らかの方法で思考を出力する必要に駆られた。それがたまたま創作だった。特に、日記や漫画だった。段々上達して、自分の気持ちをダイレクトに表現に落とし込めるようになった。上達しすぎたのかもしれない。次第に「自分の辛さに基づいた表現」に陶酔して、これこそ自分の「味」なんだと目を輝かせて自分の不幸のケツを追うようになった。不幸じゃなきゃ、この味は出せないよね。内省的じゃなきゃ、創るものに価値が無いよね。ふざけたジンクスを信じながら。自分の創作物を、自分の教祖にしていた。馬鹿らしい。本当にくだらない。宗教なんて信じません、無神論者ですと言っておきながら辛くなったらすぐに自分の作り出した偶像に縋る。きっと自尊心の欠如が問題なのだろう。自分の根っこに自信も自負もないから、何ものかに縋らねば立っていられないんだろう。もっと言うと、自分は「正直な自分」にまったく興味が無い。なぜなら自分のことが本当に嫌いだからだ。「ありのまま」なんてものに反吐が出る。ちがう。本当はそうありたい。けど、あまりにそのままでいられる気がしない。着飾って、捻じ曲げて、それでなんとか取り繕わないと、喋れない。目を見れない。人と居れない。「あなたはどんな人?」そう聞かれるとき、「本当にどういう人間か」など少しも考えず、「どういう人間と答えるべきか」がまず思い浮かぶ。空っぽだ。風船みたいだ。中身が詰まっているように見せたくて(それも内実が伴っている人間と思われたいからではなく、みんなと同じだと思われたいからでしかない)空気をつめてパンパンに膨らんで、いつか何かのはずみで破裂することを恐れながら、心のどこかで、いっそ破裂してしまうことを何より誰より望んでいる。破滅願望というのは、案外そういうところからくるのかもしれない。

 何よりも、逃げているのが駄目だ。うまく言えないが、今の自分は逃げている。辛いことから、苦しいことから。一人暮らしを始めた頃は本当につらかった。何にもうまくいかないと思った。アルバイトはきついし、勉強もしんどいし、スマホの節約モードでガビガビかつガクガクのyoutubeを見て「へははあ」って腑抜けた笑いを浮かべる日々だった。その頃に戻るのが、怖い。今はわりと幸せだ。「その頃」に比べたら。ただ、比較的でしかなくとも一応幸せだから、やる気が乏しい。ハングリー精神がない。漫画が、進まない。ネームの出来もあまり良くない気がする。でも、その時できる最善を尽くしてやるしかないんだろう。なんかネームん出来悪いなーとか言って描かなければそれは一番アホと言える。