キンカンのブログ

気が向いたら書いています。

2024/04/17

成人を迎えてしまった。軽く絶望している。まあ大学にも受かって進路に不安があるわけではないが。それに一応この年になるまでいろいろ苦労もしたしなんだかんだで頑張ってきたと思うし。だが、その結果として今の自分が20歳にふさわしい精神と相成っているかと問われると、とんと自信がない。困るから、考えたくない。

よく寝床について消灯してから真っ暗闇にだんだんくっきりと浮かんでくるあの恐ろしい考え、「今まで私は何をしていたんだろう。」という焦りや恐怖、後悔がないまぜになった火山性のガスのような不安がここでも襲い来るのだ。何にもやってはいないんじゃないか。本当にこんなことで大丈夫なんだろうか。どんどんそんな言葉が脳裏をよぎる。

しかし、頑張りというものはえてして他人の評価に引っ掛かりにくいところがある。それは過去の自分の頑張りを評価するときも同様である。そもそも過去の自分が何していたか、単純に思いだせず「ろくでもないに違いない」と記憶を補っている可能性すらある。信用ならんな、まったく。「他人の評価なんてあてにならない」という主張をする場合、今自分が過去の自分に対してしている評価もあてになりはしないという事実を認めることになる。過去の自分なんて、他人とそう違わない。結局じゃあ何かっていうと、今頑張らないとね。ってこと。

餃子を作って食べたし、バイトもそれなりに頑張ってる。創作は…まあボチボチ。もっと頑張れるはず。頑張るってなんだろう。なんかよくわからなくなってきた。霧の中をずっと進むと、いつかは霧になれて見えてくると思ったがまったくそんなことはなかった。むしろ霧の中にいる状況に対する感覚がマヒしてきた。

2024/03/09

つねに、前提や現行の価値観がおおきく揺らぐような提言の後では、静的なものは否定され動的なもので説明をつけようとする動きがある。つまり努力し続けることこそ大事という理論であったり、反証主義のようなことだ。これはいうなれば信じ続けるためのクッションだ。信じてきたものが斬新に否定されたとき、人はそのままでいられない。しかし同時に否定をそのまま受け入れることもできようがない。だから新しい、より言い逃れが効きやすいとでもいおうか。そんな考え方に縋りつく。動的な態度はそれ自体が不完全であることを認めているがために批判に強い傾向にある。弾力があるのだ。対して、静的な態度では「これで十分」「これ以上にもとめるべきはない」「現状の維持こそ重要」といういうなれば横腹をつつきやすい主張でかためられた部分が多い。つまり正しくないかもしれない場所を挙げれば容易に崩れる。(しかし静的な理論はその性質故に人を引き付ける。信じることが固定されているのは人間にとってありがたいのだ。偶像崇拝が基底にある宗教の多さを考えると然もあり。動的な理論はいまでこそ好まれるがそれはあくまでこれまで台頭していた静的な理論(または体制ともいえる)に対するアンチテーゼにすぎない。それこそ静的な理論の正しくなさを責め立てて不全にしたがために受け入れざるを得なくなったものに過ぎない。動的な理論は理論としての美しさはあるが、人間の不断の努力や思考を必要とするので正直キツい。)もちろん静的な理論がすべてにおいてすぐれているなどいうつもりはない。実際すべて体制側が決めてしまうことの弊害もあるだろう。不自由が強く感ぜられてしまうこともあるだろう。しかし例えば結婚はある程度子孫を安定して反映させるうえで重要なシステムだがどうしても自由恋愛を推し進めると結婚と乖離していく。まあ早い話それなりの落としどころをみつけないとね、となる。ここで落としどころを見つける不断の努力をするべき、もしくはひとそれぞれのおとしどころがあるよね、となると動的な理論だし、これこそが落としどころだと一意に決めたら静的な理論になる。あらゆる場所にこの理論はついて回るのだ。

2024/3/5

ブレア・ウィッチ・プロジェクトを見た。

以下、ネタバレあり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前情報がある程度入っている状態でみたが、ちゃんと怖くてよかった。やはりホラーは高画質であればよいものではなく、またカメラワークが洗練されていればよいというものでもないということが分かった。3人のメインキャラクターがカラーのカメラとモノクロのカメラを持っていてそれぞれの視点(持っているカメラの視点)からのみ撮られているので臨場感がある。そして魔女がこの映画の元凶といえるのだが、どこにも魔女の姿がはっきりと映ることはない。ないが、代わりにその魔女を象徴させるようなコンポーネントが匂わせるように随所に置かれているのが良い。積み石や枝でできた人形、人体の一部が入った巾着に様々な人の叫び声、また青い粘液など。どれも想像をかきたたせるものでよかった。個人的には叫び声がよかった。おそらく今迄に襲った人の叫び声を学習してまねることができるという設定があるんじゃないかなと考えたりした。しかしそういう設定は明らかにされていないと思う。少なくとも作中では。この具合がうまい。邪魔にならない程度でありつつ、容易に想像がつく。ホラーは画面で完成するものではなく、それを見た人を触媒として、見た人の脳裏において完成するものだからこそ下手な説明は邪魔だからである。「ほうら、青白い女が手を伸ばしながら叫んでいたら怖いやろぉ?」ではなく、それを見た人がどう思うかなのだ。(多分ベタだな…って感じかな)また登場人物も、過度にキャラクターになっていない等身大の人間が描かれており、だからこそおかしくなっていく状況にあわせておかしくなっていく人間という流れが意味をもつ。エンタメとしての映画のすじがきはある程度決まっていて、そこに添っていってその採点基準から、どれだけ高得点を出せるかという部分があるが、ホラー映画は怖がらせることが目的なので、ちゃんと中だるみもせずずっと怖いのが一番だと思う。そのために必要なのが、最初は伏線を張り巡らせ「日常」つまりは平常時を描き、そこから時間が経つにつれて転げ落ちるように状況が悪く、より恐ろしくなっていくということだと思う。勿論絶え間なく怖い状況が押し寄せてくると疲れて麻痺してくるので、大抵怖さと安心を波状に仕掛けていくことにはなるが、しかし全体で見ればどんどん悪化の一途をたどり、最終的にはその恐怖が最高潮まで高まったところでシンバルが鳴って静寂が訪れる。そしてエンドロール。もちろんシンバルというのは隠喩であってその映画でなんらか決定的なシーンが持ってこられるということだ。この怖がらせる緊張感を生むのが本当にいろんな方法があるんだなと感心させられる。そもそも人間の怖いという感情自体多岐にわたるものであり、死やケガを恐れるものから異質なものを恐れる感情、突然怖いものがでてきてびっくりするジャンプスケアものなどいろいろある。そのなかでもこのブレア・ウィッチ・プロジェクトは未知のものに追われる恐怖を描き切っており、しかも中だるみすることなく緊張感はラストに向かってどんどん高まる一方でちゃんとラストシーンも怖かった。よかった。上記の、直接見せない恐怖をまさかラストでも使うとは思わなかった。ラストでは怖い魔女の見た目どーんで終わると思っていた。舐めていた。しかもそれがうまく設定とかみ合っていたのも良かった。個人的にはすごく好きな映画だった。ジャンプスケアも、グロも、エロも(なんならホラー要素を生み出している元凶である魔女自体の描写)も無いのにずっと怖かった。日本の映画をなにもかんがえずにけなしたいわけではないが、もし日本で作られたらガッツリ貞子的なものを途中で見せて、貞子が「ほあああああ…」とかいってるのをみた大学生役が「うわぁー!」とかやってたのかなあと思った。

2024/2/29

「LAMB」と「ホームアローン」を見た。Youtubeで暇つぶすのもいいけど、映画のほうがなんか罪悪感ないんだよね。なんでだろ。何か映画のほうが教訓とか受け取ろうとしてみてるからかな。まあいいや。あ、ネタバレあるかもしれないから注意。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「LAMB」の感想としては、序盤中盤の雰囲気がとても好きだったな。あと服着た羊かわいい。あれがかわいく見せることができたのがあの映画のすごくいいところだと思う。禁忌に対する忌避感だとか恐怖感を感じてもらう映画だと思って身構えてたけど、そっちに寄り切らずにあの女性目線での世界も盛り込まれている感じが一様に決めきれないところを生んでいたと思う。まあバランスとってたのかな。見ている側はすでにえげつない禁忌の様相を見たくて、ハッハハッハと鼻息荒くして待ち構えてるから、そこで提供する側が予想通りに「めちゃ気持ち悪いもの」を出したら、そのめちゃ気持ち悪いもんをそのまま受け入れて育てる母親の異常さだとか、狂気みたいなものばかり引き立ってしまう。「怖いもん見せてぇ~?」「ほうら怖がれほら!ほらほらぁ!」「わぁー怖ぁーいっ!すっごい怖ーい!」って、そうなるのをを避けたのかな。全体的に禁忌を受け入れることを、いかに自然にするかみたいなことが根底にあった気がする、とおもう。だからこそ、唐突に見せた女性の狂気の片鱗みたいな大声で「来るな」が、すごく心に来たんじゃないかと思う。わかんないけど。元ネタにも詳しくないし。

 自分の貧弱な過去の読書経験から話すのは心苦しいけど、「砂の女」に似たところがある気がした。本来ならありえない、受け入れがたい状況を幸せのために受け入れる女性の姿の生々しい描写が想起させたのかな。だから、あの夫の弟はありえない状況に「ありえない」と言うためだけの役だったんじゃないかな。「砂の女」だったら主人公が「ありえない」と言ってたけど、この作品だと夫はもう「妻が受け入れるなら」と完全に受け入れてたっぽいし。だから「おかしいやろ」っていうだけ言って、言い終わったら兄の妻にちょっかいだしつつ退場させられたわけだ。正直ラストについてはなんも言えない。多分、序盤中盤のじっとりしたサスペンスホラーの雰囲気で、「もう十分エンタメとしては…もう、いいっしょ?」みたいな感じで、あとは表現するうえで欠くことができないが、ストーリーとしては面白みに欠ける部分を「ずぼっ」とラストに持ってきた感じ。いや、順序が逆か。「まあ俺たちが言いたいのは、こういうことなんすよ。」ということがまずあって、それを見せるために序盤中盤のハラハラと気味悪さという餌をまいたのかもね。本編中ずっと湿度の高い、それでいて大きな事件も少ない陰湿な時間が多かったから、夫婦と夫の弟が三人でスポーツ観戦して、その後で弟が若いころに録ったミュージックビデオをやめてくれといいつつ見る、しまいには踊るというシーンはすごくコミカルに見えて笑っちゃった。ずーっと地味な味のシャーベットばっか食わされてうんざりしたところに急にポテトチップスがでてきたみたいで嬉しかった。

 

 

ホームアローン」は、とことん映画を作るプロの仕事って感じがしてみてて感心した。安心感のあるストーリーラインに、随所にちりばめられたクスクス笑えるようなネタ。どぎついものはなく、どれも子供から大人まで楽しめるものばかりだ。どこどこまでも見た人を楽しませる気概に満ち溢れていた。当然ラストもすっきりおわった。というかむしろ最初は登場人物全員カスだなと思ってたくらいだし。母親はまだいいけど。主人公も故意ではないとはいえ万引きしてるし。泥棒を撃退って、お前もやんけ!ってなってたし。でもそれがみーんな終わって、アイリスアウト的な、大団円の終わり方は家族で見るのにちょうどって感じだ。良くも悪くも「LAMB」とは対照的な作品だった。

どちらも良い作品だった。

2024/02/24

 また久しぶりに日記を書くね。いや、忙しかったわけじゃなくて、サボり。うん。最近ゲームとかyoutubeとか遊びまくり見まくりのだらけきった生活を謳歌してるんだけどね、このままじゃだめかもって頭じゃわかってるけども、やっぱりこの生活が続くうちは続けたいっていう甘えた考えもあるの。まあバイトも忙しいし、なんだかんだ頑張ってるし…なんて言いわけしつつも、普通に考えて12時に寝て9時に起きるような生活はだめだよな。凡人は、人より早く起きて時間を有効に使えって、それいっちばん言われてることだし。冬は寒くて自炊も満足にできてない・してないし。お好み焼きつくったくらいかな。ほんとに。あとは鍋と納豆とインスタントでしのいでる。やだね、やっぱり一人暮らし、特に大学生の一人暮らしなんて時空がゆがんでんのかみたいな生活の乱れがみられるね。でもやっぱりバイトが20時に終わるからそこから飯食ってシャワー浴びてってなるとやっぱ11時くらいにはどうしてもなっちゃうわけ。すこしだらけると12時コースよ。だめだねー。ホントに。運動もできてないしね。ランニングしようかな、とかも思うだけで。三日坊主にすらならない。酷いもんだよ。勉強もしなきゃいけないはずなのにね。ホントにね。馬鹿だね。

眠たさ

 目のあたりにとろとろとした灰汁がたまってくる。その灰汁のぶんだけ、まぶたはずるずるとおもくなる。現実は眼のそとに広がっているが、どんどんと薄まり力が入らずくぐもった肌色の世界に落ちていく。その世界は漏斗のように下のほうには一度落ちれば戻れない穴がぽっかりと口を開いているが、抗いきれずずるずると落ちそうになる。まずいと思い手に力を入れると、ふっと一瞬目の前の景色が突然に現れる。一瞬わけがわからず、また周囲に人がいることを思いだしすこしばつが悪い気持ちになりつつ、腕の位置を直したりする。そうしているとまた甘ったるいとすら思えるような温かく心地よい泥が首からその水位をあげて口、鼻、ついには目までたどりつく。息は全く苦しくない。すうすうと暖房の乾燥したあたたかいにおいがするだけだ。くう、と前につんのめる。目は九割がた閉じてしまっている。と思うと完全に閉じてしまった。もはや前につんのめっていることすら気づいていない。数秒経つ。ぱた、と目を開ける。その目には視線というものがなく記号化される以前の「目」であり、物質としてそこにあるだけの目である。ふっとその目に命が宿り周囲を見渡す。死んでいたものが生き返る瞬間に似たものがある。そしてまた睡魔の誘惑に堕ちる。

2024/01/20

 そろそろ新年の空気も完全に抜けきった。春を待つ心に徐々に意識が向く様は蕾が芽吹く瞬間のようで、静かに横隔膜で心が躍る感覚がある。そして新年でゆるみきった心が徐々にしまるようでもある。ところで私は、というか私の家族はいつも年明けには親戚で集まって何か一緒に食べるという慣習がある。考えたことはなかったがおそらく他の世帯でも似たようなことはあるんじゃないだろうか。父方だか母方だかの祖父母の家にお邪魔して鍋を食い散らしてUNOをする。または外食でもするか、ということで小・中学生くらいの子どもはラーメンと寿司をかたくなに主張、高校生や大学生くらいの子供はやっぱり焼肉だろと笑いながら戯れに近くの奴の肩をゆさぶり、それをその子供たちの親そして祖父母もしかすると曾祖父母がほほえましく見ている車内。大抵こういうときは車は二台出動し、行き先は大人のみぞ知る。まあ回転ずしが無難だったりする。アウトドアな文化をもった世帯ならばまた違うのかと思ったが、冬だからキャンプは厳しいだろうし、まあどこも似たようなものだろう。すこし話が横道にそれたが、本題はその親戚の集まりでの出来事についてだ。私とその兄弟に、いとこ数人そしてその両親と祖父母を引き連れて所謂田舎のレストランに来て料理に舌鼓を打ったのだが、子どものほうはずいぶん静かに食べている。それと対照的に大人はずいぶん話がはずんでいる。子どもは子どもで一つの大きなテーブルを囲んで、大人は大人で固まってテーブル囲んでいるからその差は歴然だ。この鮮やかな対比に興味が湧いたのだ。これが本題。どうして子どもは静かで、大人は饒舌になっているのか?一つそこで思い浮かんだ仮説は、近況の明らかな差異だ。食事しつつの会話として、なおかつこうして久々に会うとなるともっぱら近況についての話題が多い。しかし学校に通っていればある程度その生活というのは似通ったものになるし、そもそも車内でくだらないことについて笑いあって話していたのに、突然食事しながら「ところで…どうかな?その…学校とか…部活のほうは…」などどしゃべりかけても白々しいというかほとんどふざけているようにしか聞こえない。だからもくもくと目の前の天ぷらやら味噌汁やらをかきこんでいる。もちろん全く会話がないわけではない。じゃあどういう会話があるかというと、料理についての会話だ。「量多いね」とか「この魚のやつきらい」だとか「それもらっていい?」だとかだ。それに対してむこうで大人たちが喋っているのは、「○○さんは確かこれこれこういう仕事でしたよね」「そうですそうです」「どうですか最近。コロナもある程度その、緩和して」「案外大きな影響はないんです、意外と。ただコロナ禍ではしてたことの中でもめんどくさいことは自然消滅したものも多いですね笑」

こんな具合だ。つまり少し過去のことも引っ張り出して喋っている。すこしおもしろいな、と思った。子どもは目の前で共有していることこそ話すべき、話して面白いと思って話題を振って膨らませたりするが、大人はむしろ近況にこそ時間が割かれる。もちろん目の前の話題にも触れるが、比重としてそう重くない。これが何を意味するかは知ったことではないが、興味深いとは感じた。それだけだ。