キンカンのブログ

気が向いたら書いています。

まわるろうか

自分の中でゆっくりとだが確実に変化してきているものを感じる。それは姿勢と言おうか志向と言おうか、少し大仰にいうならば未来への向き合い方が変化している。今までは、未来にこそ今は持っていない自由や知識や幸福が確実にあるのだという考えに基づいて戦々恐々しながらも、すくんだ足でなんとか前に進んできた。それは羅針盤を頼りに存在が約束されたように思われる隠された宝物の山を見つけるべく航海をするようだった。船員はいないかもしくはごく少数で、物資もほとんど無い。危うさが隣にあるどころか死そのものの上に一人で浮かんでいるようなものだが、航海の最中は別にそんなことは気になりはしない。ただ一緒に航海をする仲間の不在や、物資の不足だけが悩みの種だった。いや、それは悩みと言うにはあまりに単純で愚直な飢えだった。極度に飢えていて、常に恥を感じ、ごまかしながら生き、他人が見れば笑ってしまうような小さな困難に命をかけて挑んだ。過去をあまり持っていないがために未来を推し量ることが難しく、だからこそ純度の高い感情や希望が持てた。しかし歳を重ねていくにつれて、過去の楽しかった経験や苦しかった経験からこれから行うことの実質を無意識に推し量ってしまい、「やったことはないが、なんとなくこんな感じだろう」という思いに突き当たってしまう。老人が航海するとき、今まさに己の船を襲う嵐にも、過去のどこかの時点で出会ったいくつかの嵐を重ねて見ているということだろう。当然今現在直面している現実に対する解像度は低くなってしまう。人間の受ける印象というものは相対的な面が多分にあるが故、過去と比べてしまう。登山家が相当な熱量を伴った感動とともにエベレストを双眸に焼き付けたのちに、ゆるやかな河川に浸かったのどかに連なる山々を故郷で見たとき、どうしてそれら故郷の山々が「高い山」だなどと思えるだろうか?

先ほど幼いころは何とか前に歩いてきたといったが、では今はどうなのだろう。おそらくだが、少しずつ円を描くようにして方向を変えているように感じる。人生はそれほど良くはならないけど悪くもならないという考えが、なんでもない日に「ぽつっ」と降って湧いたとき、生まれてからずっとまっすぐ歩んできた方向に少しずつズレが生じていく。その一回一回に変化する角度はそれほど大きくないが、積み重なるといつのまにか180°回ってしまってもと来た方向の反対をむいて歩くのだろう。そういう意味では、小学生ではまだかなり真っすぐ歩き、中学生では斜めに歩きはじめ、高校生になるともうだいぶ角度が付き、大学生になると今まで歩いてきた道に対して直角に歩くようになる。働き始めると(人によるだろうが)もうそれほど角度は変わらず、これは男の場合に顕著だが退職すると一気に角度が変わりもともとの方向の逆に進み始める。昔の出来事を頭に引っ張り出して懐かしむ行為もまた角度の変化を早める原因だろう。しかしこの角度の変化は果たして望ましい事態なのだろうか?それともあまり歓迎されないことなのか?

 

どちらにせよ、古今東西遍く人々にとって至極自然なことなのだろう。

当然、自分にとっても。