キンカンのブログ

気が向いたら書いています。

居場所

 ある少年がいた。背丈は小さく、肌は薄黒く汚れていて、着ているものといえば泥水で染め抜いたような麻のシャツと辛うじて原型を保っているズボンのみだった。そのみすぼらしい見た目に相応しく、都市部の南の外れに位置するスラム街に住んでいた。両親とも顔も見たことがなく、親戚である叔父の家で生活している。「生活」と言っても、叔父が生活費の一端を担うわけでもなく、またその家も狼が息を吹き付ければたちまち崩れるようなぼろ屋敷であるため、夜から朝、それも早朝まで「屋根を借りる」ということでしかない。叔父は当然のこと、少年もまた日雇いの仕事が朝早くからあるからだ。定義上の注意としてここで一つ断って置かなければならないのは、「都会に形成されて」おりなおかつ「生活水準が低い」ということだけではスラム街はスラム街たり得ない。どういうことかというと、ある文化に属する人間が他の文化に属する人間の住居を評価する際に、往々にして自己の属する文化を基準にして考えてしまう。実際にアメリカではプエルトリコ人など特定の民族集団が固まって住んでいる地域の生活水準がアングロサクソンアメリカ人の許容できる水準に達していないとして、スラムとした例がある。しかし、これを踏まえた上でも少年が住んでいるのは紛うことなき「スラム」だ。定義上から言ってもそうだし、また住人もそのことを心の底から認識している。それはなぜか。見えてしまうからだ。見上げてしまうからだ。天を衝く白いビル群を。建物の肌を下から上へ視線で撫でていくと、目眩の起こるような巨大な質量の感覚を覚える。我慢できずに、意図せず他人と視線がかち合ったときのように咄嗟に目を下方に伏せると、もう一つ見えてしまうものがある。自分たちの住む場所。その色や大きさ、纏う空気総てが重苦しく錆びて下の方にどろりと溜まっているのが。この少年の場合その意識は、心の視線は知らぬ間に自身の大きさまで縮小している。そうして、その底に溜まったなにがしかのものに押し流されて汗だくになって仕事をしてまたその泥と一緒くたになってわけの分からぬまま眠る自分自身が、今まで幾度となく焼き付いた記憶の中に(_もしくは永続する感覚とともに、それは彼の未来そのものに)ありありと映し出される。若さ故か未だ鋭敏な劣等感がそれを隅々まで照らし出してくれる。

 少年の朝は、こうして始まる。

 

スラムの労働と聞くと男性の肉体労働を思い浮かべる人が多いかもしれないが、実際には女性の労働力が割合として高い。家族単位で考えても、父親は賭け事か飲酒に興じて積極的には働かず、母親が料理を売って、それで収入の大部分を賄っているという家庭がほとんどである。市場で魚や野菜などの食材を仕入れ、自宅で多めに調理して路上や家の前で販売するのだ。しかし少年には両親がいない為母親に頼るわけにもいかない。叔父経由で紹介してもらう日雇い労働に精をだすことでその日その日をだましだまし生きている。日雇いなので仕事がある日は給料が出てまともな食事にありつけるのでいいが、そうでない日はつま先にかじりつくようにして寝るか、錆びかけのナイフで木っ端を削って小さな置物を作ったりする。はじめのうちは、叔父に木くずを削って木くずを作っていると言われるほどの粗末な出来だった。しかしこつこつやっていると段々と上達してきて、1個で一食が賄えるくらいの、悪くない値段で売れるようになった。それでも一つ作り上げるのに丸数日ほどかかるのであまり効率が良いとは言えなかったが、少年はあくまでこの工作を趣味と割り切っていたので特段気にはしなかった。良い値段で売れているところを見て叔父もひとつやってみようかしらという気になり自前の、少年のものよりはまだ錆の少ないナイフでいい色の木を削ったが、大きな木くずがぽろぽろとできていくだけだった。叔父はあまり何事にも強い情熱を持たない分辛抱強いと見えて、それでも尚しばらくはサクサクという音を立てて夜中に木を飽きずに彫り続けていた。その音を聞きながら段々と睡魔の手に引かれて眠りにつく時、彼ははっきり言語化して意識していたわけではなかったが、ぼんやりと心地よかった。

 少年の日毎の仕事は多様だが概ね肉体労働である。例を上げるならば、物をあっちからこっちへ、こっちからあっちへと運ぶ仕事、時期によるが作物の収穫、またジュートを編んで絨毯にするような内職めいたことまでする。だが共通して賃金は安く、特に安い日ではその日の分の食費も賄えないこともある。だから少年は一日も欠かさないように叔父に紹介してもらった仕事をこなしている。だから学校には当然通ってなどいない。彼くらいの年の少年たちは概ね学校に通って、買い食いをして帰っている。それほど高い買い物ではないが、親からもらったお金で(大体の家庭では子供は親の仕事を手伝っているが)軽食を買って帰りみちに食べている。両親のいない彼は見ないようにしながら麻袋を運ぶ。今日の仕事を終えて、また家で木でも削ろうかと考えていると、突然に身体の大きな青年たちに呼び止められた。少年は「またか」と反射的に思い立ち止まる。青年たちは自分を見て少し笑う。

「今日も数学の授業が面倒だったな」

 集団の中では背が中程の青年がそう言うと、周りの青年たちも弾けるように笑った。この冗談に彼の彼らの悪意すべてが含まれていた。誇張されたような笑い声に合わせて橙黄色に錆びた空気が層状になって揺れている。少年はうんざりしていた。嫌味に気づかないほど鈍感なわけでなく、うまい応答ができるほど鋭敏でもない彼は、馬鹿だな。と一生懸命思って、そう思うことによって羞恥心や自己嫌悪をかき消そうとしながら足早に通り過ぎた。彼がもし青年たちの喧嘩を買って返り討ちにされて、たとえ殺されたとしても誰も気にしない。(叔父はもしかすると…と彼は考えたが)彼はなんの証明もなく、保証もなくただ人間の生活の狭間に窮屈に挟まって生きている黒い塊。そのことは彼が一番わかっていたからこそ、感情に任せて食ってかかることをしなかった。しかしひとりでに彼の頭は、痒くて力任せに掻きむしったところが熱を持って痛むようにぐるぐると巡っていた。急ぎ足の帰り道の途中、川に入って気分転換しようという妙案がぽっとひらめいた。このまま家に帰って木を彫っても、もくもくとつまらないことを考えてしまうと確信したからだ。数十メートルの寄り道をして川岸についた。手をぬらすと冷たかった。しかし、感覚が遠くにあるような気がした。どうやら自分が冷たいと感じているらしい、というような感覚の余所余所しさがあった。膝をついて顔もぬらした。顔の表面が一瞬凝縮したような気がして、熱を帯びた堂々巡りの思考にさっぱりと幕が下りた。少年は安心して家に帰った。

 翌日も昼まで働いた少年は昼食に具材のない焼きそばをすすっていると、遠くの方から歩いてくる少年を見つけた。姿勢が良いのが遠くからわかった。場違いな雰囲気があった。柔らかなベージュ色に寄った白色の服を着ている。下はきれいなデニム地のズボンだ。歩いてくる途中でよくわからないものばかり売っている雑貨屋に居るお婆さんに話しかけている。ぱさぱさした口内のものを一息に嚥下して立ち上がって、思い切って話しかけてみることにした。恰幅が良いわけではないが丸く、ほの赤いほっぺたやきちんとした服装は彼が裕福な暮らしをしていることを明示していた。しかしながら貧しい彼に下心があったわけではない。学校に通っていない彼は同じ年くらいの友達がおらず、(彼自身のいらぬ劣等感がそれをさせないときがほとんど常であったが)常々話し相手を欲していたのだ。裕福そうな少年の名前はコリダリスというらしい。ハキハキとした清潔な喋り方からきらめくような教養が感じられる。どうやら両親と観光に来ているらしい。少年はむずむずするような気分だった…観光とは!まったく、お金持ちの考えることはわからない。こんなところを?と思ったが、午後からは仕事が入っていないのでどうせ暇だ。「周辺を紹介しようか」と提案すると、コリダリスは快く承諾してくれた。そういえば、

「両親は?」

と少年が尋ねるとコリダリスは

「後から来ると思う。多分雑貨屋を見ているんじゃないかな。」

と答えた。ここの治安がひどく悪いというわけではないが、それにしても不注意な両親だなと思った。コリダリスの目線を感じる。何か聞こうとするときの意識が自分に向かってはためいている感覚がある。なんだろうか。

「名前は何ていうの?」

コリダリスに問われて、言葉に詰まった。自分に名前はないからだ。しかし今までそれで特に困ったこともなかった。労働するときには「おい」「お前」で済むし、叔父はそれほど自分に関心がない。からかわれるときでさえ名前が必要になったことはなかった。名前は無いしつけてくれる人もいないとコリダリスに伝えると一瞬驚いたような顔をしたが、それは困るなとお道化た風に言った。意地悪な青年たちの笑いとは全く異なった笑顔だった。

「じゃあ、好きなものは」

なんだろう、と考えた。特に思い浮かばなかったので、今日食べていまだ歯に滓が残っている「焼きそば」と言った。

「焼きそば。じゃあNouilles fritesだから…ヌーウィス・フィーツはどう?」

「ヌーウィス…?フィーツ?」

「名前。フランス語で多分焼きそば。今勉強しているから…流石に駄目かな。」

どことなくかっこいい語感とフランス語という未知の言語の神秘性は少年の感性を強かに撃ち抜いた。速やかに了承して、積極的に名乗っていこうという決心を…ヌーウィス・フィーツが固めていると、コリダリスはもう歩きだしていた。

「早く!色々見たいんだ!ヌーウィスもずっと暇ってわけじゃないでしょう?」

ヌーウィスも急いで駆けていった。彼はこの地域の同じ年代の子供とうまく喋れた経験が少ない。しかしコリダリスとはうまく喋ることができる。それが単純に嬉しかった。

 しばらく周辺を紹介しながら会話するごとに、コリダリスの人物像が手に握るように解ってきた。人格が見え隠れするところは発言の内容やタイミング、その時の表情にある。コリダリスの場合だとまず、自分に両親がいないことに触れないこと。おそらく自分に名前がないことから推測して意図的に避けているのだろう。コリダリスの喋り方や話題の節々からは、馬鹿な自分では捉えきれない賢さと、それを自覚した上で恥じ入り、道化に近づこうとする健気さが見え隠れする。羨ましいというような気持ちと裏腹に、どこか諦めにも似た憧れがろうそくの火のようにちらつくのを感じた。

 しばらく経ってからコリダリスの両親と合流した。ヌーウィスは失礼だと思いつつも異物のように感じてしまって、気まずさからぎこちなくなったが、コリダリスが良く紹介してくれたのでいくらか気分が楽だった。と思うと、あまりに紹介が巧すぎたようでコリダリスの両親に自分の良い印象がつきすぎたようだ。養子にならないか誘われてしまった。聞くと比較的高齢での結婚だったらしく、それ故第一子のコリダリスは無事出産して成長したが今後の出産が無事に行く確率は低いらしい。しかし孤立しがちなコリダリスの良い友だちとしても自分が養子になってくれるとありがたいとのことだった。 こう言うといかにもこの両親が考えなしに誘ったように思えるが、おそらく二人で悩んだ末の曲がりくねった道の先に偶々自分がぽつねんと立っていたに過ぎないのだろう。こちらとしては願ってもいないことだった。他の心配事と言っても、唯一自分に関係のある人間と言える叔父も、一人で住むにも狭いような家が少しく広くなって嬉しいくらいだろう。ほとんど持っているものがないだけに、余計な心配もなかった。勿論ふたつ返事で了承した。こんな幸運が転がり込んでくることがあるんだなと、すこし怖いくらいだった。慣れきった不幸は慣れていない幸より親しみ深い事がある。しかし彼はそういった諦観に身を沈めるにはまだまだ早かった。むしろこれからの全く新しい生活の予感__というより彼の体感としては冒険と言ったほうが近いだろう__に、身のちぎれんばかりの胸の高鳴りを感じていた。 ヌーウィスに親がいないことはコリダリスの両親は当然ながら織り込み済みで誘っていた。コリダリスがそれとなく伝えたのだろうと思うと、自分が養子に取られるのはほんとうの意味では誰の為なのだろうかと少し思った。しかしお互いがお互いのことを想っているだけだと納得した。

 養子になるためには様々の書類上の審査?が必要らしい。その責任は自分がスラムから除外されることに、というより自分が裕福な彼らの住んでいる「街」に含まれる上での儀式のようなものだと理解した。その審査に時間がかかるから今日にでも出発して街の方に向かおうとのことだった。コリダリスは「えー」と言って駄々をこねたが、心からまだ居たいという気持ちよりは、形式上そうしたという雰囲気があった。両親も本気でコリダリスが駄々をこねていると思っていないと解った上で、ヌーウィスが自分たちの街に慣れてもらうためにも早く出発しようと言った。コリダリスは脚本に沿ったようにそれに従った。コリダリスの父は「夜は冷える」と言って高そうなコートを肩に掛けてくれた。もうすっかり日が傾いていた。

 ヌーウィスはコリダリスとその家族と歩いていく途中、自分をからかった青年がたむろしているのを目の端に収めた。コリダリスに少し待ってもらうように言ってから、そちらの方に駆けていった。青年たちがこちらに気づいて顔を上げた。眉頭が下がり、不審な顔をして聞いた。「あいつらは誰だ。」 自分は左の口の端を釣り上げて薄く笑ったが、目はその表情の変化に追従しなかった。「俺が…俺を養子に入れてくれるらしい人たちだ。」青年たちの中で一番背の高い男が心底馬鹿にする顔をして「そんなに馬鹿だとは思わなかったな。本当に養子にするわけがないだろう。」と言った。もらった高価な服を見せても、単なる気まぐれだと取り合わなかった。なんだか嫌な気持ちがむくむくと育った。その嫌な気持ちをもったまま、今待たせている綺麗な人たちについていくのはすこし気が引けた。ヌーウィスはどこか、身体ではなく心のどこかを震わせながら言った。「悔しいんだろ。いまお前は俺に手を出せない。どこにでもいる黒い塊じゃない、いま価値があるんだ。名前だってある。俺は。誰かの鬱憤に運悪くぶっつかって死んでも誰も見ないし覚えていないようなのじゃない。お前らとは違う。俺は。お前らとは違うんだ。」

 途中から声が上ずった。ずっと言いたかったことのはずなのに、言った瞬間惰性で口から出てしまったようで、なんだか少し後悔した。自分の声じゃないように感じた。それどころか、自意識そのものが自分から抜け出して、離れたところから自分の声を聞いている気さえした。喋っている最中、ずっとあの家族に聞かれはしないかとはらはらしていた。言い終わっても心は晴れなかった。先刻まで胸を占有した嫌な気持ちを固体とするなら、いま胸を占めているのは気体だった。すべてを締め出してもどこからか忍び込んでくる腐食性のガスが、何も溶かす事なくしかし消えることもなく、ただ今は胸を占めていた。青年の一人はじっとこちらを見て、怖い顔で 「そうか、消えろ」とだけ言った。とぼとぼと「家族」のもとに戻って、長く待たせたことを謝った。あまり気にしてないようだった。道で拾えるようなものしか売っていない雑貨店を眺めて時間を潰していたようだ。いつの間にかコリダリスがおかしなネックレスをつけていた。おしゃれだなと言うと、素直に喜んでいた。

 

 

 ヌーウィスはビルに住むとは思っていなかった。正確に言うならばそういった発想に至ることがなかった。少年にとってビルは人間が中に入って生活をする場所ではなかったのだ。あの白い恐ろしく巨大な塊の中で豆のスープを啜ったり、体を濡らしたタオルで吹いたりすることを想像すると(正確には想像できなかった。空想のビルでの生活はどうしてもがらんどうの灰色の部屋にいて豆のスープを啜るような想像になってしまった)、どうもおかしな気持ちがこみ上げた。しかし怖くなかった。コリダリスのことは単純に好きだったからだ。その両親も勿論のこと嫌いでなかった。いよいよ彼らの住むビルの前に着いた。ビルの玄関が開くときに感じる清潔な空気はどこか甘いように感じた。すべてが清潔な気がした。その瞬間、ヌーウィスは風景が白く飛ぶほどに強く「ここにいたい」と思った。それは厳密にはビルの玄関に居たいということでもドアの近いところに居たいということでもなく、もっと感覚的な反芻を求めているようで、彼には言語化するだけの能力はなかったが確かにヌーウィスはそう感じた。それはつまり、この瞬間にずっと留まりたいという、幸福の実感であり(安易に言ってしまうならば)未来における落胆の予感だったのだ。大きな自動ドアを通った瞬間、なにか分からない怖気が背筋を撫でた。というより、怖気を感じろという脳の信号が発信されて、それにより怖気を感じたような、あまりに強固な「本能的でない」実感だった。内面的変化と対比するように、目の前には燦々たる未知の世界が上下方向の情報の拡大も伴って広がっていた。カーペットはシミひとつ無く、美しい透き通るような白い石が床材に使われている。広さだけで言えば当然屋外の方が広がっていると言えるが、室内の「広さ」というのは殊更に強調されて感ぜられるものだ。屋外の空間は何かが未だ建てられていない、埋められていない空白という意味での空間に過ぎないからだろうか、それとも空があまりに際限がないからこそ、具体的な壁の遠さが認識できるとより広さが現実味を持ってくるからだろうか、それはわからない。ただ少年はこの状況で、生まれて初めて純粋に孤独だった。単純なホームシックではない。今までは自分の生まれ故郷のスラムとの対比としてビルや裕福な暮らしが良いものとして捉え、毫も疑うことがなかったが、一度完全に「裕福な」暮らしの世界に入ってしまうと、ただただ自分自身がこの空間に不適合であるという感覚のみが残ってしまったのだった。

彼はやっと悟った。彼の胸にずっと突き刺さった小さな木の棘のような劣等感は、摩天楼にすむ裕福な人々に感じていたものでなく、ただ親のいる、おんなじスラムに住んでいる、同年代の少年たちに感じていたものだったのだ。そんな格好のつかない劣等感を自分だけが感じているという状況が彼には到底耐えられなかった。裕福な人達へ劣等感を向けることで、その劣等感はスラム全体の劣等感に埋没する。無意識に、疎外を何より恐れたのだ。彼にとって自分がスラムにいようがビルの最上階にいようが関係ないということは、誰よりも彼が理解していた。しかし、それは忘れていたことなのだ。ひとりきりの劣等感を忘れるために集団の劣等感に仮託したのが功を奏したから忘れられていたことを、固まりきったかさぶたを意図せず、「忘れていたからこそ」剥がしてしまうように、思い出した。思い出したことで、もし彼がこのままこの家族と一緒に生活したとしても____彼には摩天楼での生活を仔細に想像することはなかったが、たとえ考えられる限りのことがうまくいったとしても、今度はなにか別のこと、例えば「本当の親子でない」という些細なことに劣等感を感じるのだろうということくらいは、双眸に焼き付くように解った。その痛み故か、彼の目からはいつの間にか涙が溢れていた。安心、それもあった。この世界には思ったよりも、すごく不幸せな場所がないと判ったからだ。と同時に、幸せな場所もそうはないと。コリダリスは彼の涙に一瞬戸惑ったが、不衛生な彼の家と比べてあまりにも綺麗だから感動したのだと思った。だからこそ、次の瞬間彼が感謝と謝罪めいた言葉を一言ずつ残して、もらったコートを父に返して急にスラムの方へ駆け出したときには驚いた。コリダリスは誰かを引き止めるのに走って追いかけたりはしない人間だったので、大声で彼を呼んで戻ってこないのを見ると早々に諦めたが、もやもやと思考は巡った。両親は不審がったし、コリダリスもまだ何が何だかわからなかったが、感情は、すこし残念に感じてそれ以上でもそれ以下でもないので、踵を返して自分たちの部屋の階へ向かった。

 スラム街の少年はもと来た道を戻らずに、すこし迂回して叔父の家まで帰った。錆びたような水溜りを避けもせず確かめるように踏んで帰った。ふくらはぎに散った泥水が乾いて小さな白い円状の汚れをつくる頃にはすっかり頭は冷えた。彼の視界には入らなかったが、上空では月が煌々と雲を照らしていた。残念な気持ちがないわけではなかった。しかし引き返す気がさらさら起きないのだ。だが、もし。自分の気質がもう少し単純であったならば。自分の本心に気づかないくらいに鈍感であったならば。どうなっていたのだろうという思考は止まらなかった。いつもの、頭の中で行ったり来たりしてぐるぐると巡る熱を発する思考ではなく、空から溢れる流れ星のように、一瞬光ってすっと透き通るように消えていく思念だった。吊るされた裸電球に茶色く照らされた腕から指先を見ると、こすっただけで消えていない汚れが目についた。「よくもまあ。」という思いがかすかに香った。躊躇なくこの手を握ったコリダリスの優しさに申し訳なくなった。小屋の玄関(といっても貧相なドアが辛うじて内と外を隔てているだけだが)を通って寝床につく。顔の表面はほの火照っているようだが、頭は冴えていた。脳の中枢がすうっと冷えているようだった。そういえば、迂回して叔父の家に戻ったのは意識的な行動ではなかったが、今考えると青年たちに見られることを避けるための行動だったのではなかったかというような考えが浮かんだ。情けない声で弱々しかったとはいえ立派な啖呵を切って意気揚々と出ていったのだから、とぼとぼと帰ってくれば格好がつかないことこの上ないのは明白だ。だが彼は、それを些細なことだと考えた。格好がつかないからどうだというのだ、という気持ちが芯に在った。今までは何の指標も、川岸さえ見つからないまま濁流に飲まれるような毎日だったが、その中にほんの小さな「自分の」哲学のようなものが発見できたことが嬉しかった。なんとなく、生きていけるような気がした。

「帰ってきたのか」

叔父の声だった。

「うん」

口を開けずに喉を鳴らすように返事した。

「いいのか」

「うん」

「わかった」

叔父はそれ以上何も言わなかった。言わなかったが、叔父が寝ているのか寝ていないのかわからず、聞くこともなんとなく気が引けたので、なんだか首がぎこちなくなってしまった。しかし一日の疲労が脳全体にじわじわと染み込んできたので、それでもゆっくりと微睡んだ。

 

 

 翌日会ったあの青年たちは、少年が金持ちの適当な悪ふざけに巻き込まれて、逃げ帰ってきたものだと信じ切っていた。少年も、最初は少しためらったが、話を合わせることにした。青年たちはそれを聞いてすこし優しくなった。嘘をついたからといってどうだというのだ。彼らと自分たちは、そもそもが交わるようなものではないのだ。交わるべきですらない。そう思う。少年は、もう焼けつくように嬉しいことも、生きられないほど辛いこともなくなった。自分がどこにも行けないということが脳味噌の底から塗りつぶすように理解できたお陰で、消去法のように自分の居場所が現在地以外に有り得ないとことも同時に成立したたのだ。それは「もしも」が有り得ない(必要でない)人生に生きるようになった、とも言えるだろう。

 彼は今、彼の全てを覚悟することができた。